2月15日(水)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
2月10日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
2月3日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
1月27日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
12月9日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
7月15日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
2016年1月29日(金)に開催しました講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
本講演では、長尾伸一先生(名古屋大学・経済学研究科)に「複数世界論の論理と諸相――ヨーロッパ近代の展開を中心に」というタイトルでご発表頂きました。地球外の知的生命存在説である複数世界論のヨーロッパ古代・中世・近代における確立・普及・受容と19世紀におけるその衰退にいたるダイナミックな展開が論じられました。
クザーヌスからモンテーニュ、ガリレオ、ホイヘンス、ニュートン、フォントネル、ビュフォンをはじめとする多数の学者・知識人たちの思想が世界の複数性を前提とするものであり、
ヨーロッパ近世においてこの巨大仮説が知的な構えとして成立していたことが明らかにされました。
講演の後半では、そのように正統性を獲得した複数世界論が、ヘーゲルとヘーゲル左派、そしてヒューウェルなどの哲学者たちによって厳しく批判され、
科学の制度化・専門化や自然神学の衰退と相まって次第に後退していく様子が検討されました。
約1時間半のご講演の後、質疑応答では、昨今社会的に大きな問題となっている人文学の在り方、デジタルヒューマニティーズの可能性、多元宇宙論との関係、福沢諭吉の著作における複数世界論、
19世紀天文学と地球外生命体の関係、新大陸の発見と地理的な複数世界の問題など、多岐にわたる議論が予定時間を大幅に超えて行われました。
(文責 石橋)。
2016年1月25日に開催しました講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
本講演では、トーマス・シュヴァルツ先生(立教大学・文学部)に、「太平洋をめぐる言説--ドイツ文学における太平洋」というタイトルでご発表頂きました。講演はドイツ語で行われ、吉田治代先生に進行・通訳をご担当頂きました。
教員の他に多くの学生も参加する会となりました。シュヴァルツ氏の問題意識は、サイードが提起したオリエンタリズム批判の射程を太平洋へと拡大し、文学作品などにみられるこの広大な海域世界の表象を考察するものです。
本講演ではとくに20世紀初頭に太平洋の島々において、「自由身体文化」や「生改革運動」を実践したアウグスト・エンゲルハルトとエーリッヒ・ショイルマンの著作と思想が検討されました。
ショイルマン『パパラギ』 はサモア人の視点に立つヨーロッパ文明批判として有名な著作ですが、これが同時に生改革運動を促進する目的を持つものであったことやその背後にあった人種衛生学的な思想やナチス・イデオロギーとの深い関係が明らかにされました。
質疑応答では、ショイルマンの思想的変遷の可能性やヨーロッパ文明批判の系譜などが問題となりました。学生からも質問があがり、ドイツ語・日本語を交えた活発で有意義な議論が行われました。
(文責 石橋)。
1月29日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
1月25日(月)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
2015年7月24日におこなわれました学術講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
今講演会では、今年4月に着任された新潟大学現代社会文化研究家准教授の石橋悠人先生に、「19世紀イギリスにおける時間秩序・技術・帝国」との題で、ご講演いただきました。
19世紀半ばに、グリニッジ天文台長であったジョージ・エアリにより定められたグリニッジ標準時が、イギリス国内、各植民地へと普及してゆき、1884年のワシントン国際会議で、本初子午線として採用されたことはよく知られています。
今回の講演では、このようにイギリスの時間秩序が、世界標準となってゆくプロセスを、工業化や航海術、鉄道、電信など、当時のさまざまな技術・社会変容との関連から説明していただきました。
また、標準時普及の立役者ともいえるエアリがこだわった高度の正確性や、その背後にあった思想についても、詳細な解説がありました。
約1時間のご報告の後、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の主張との関連性、他のヨーロッパ諸国との比較など、フロアからさまざな質問・意見がありました。
こうして、さらに1時間にわたる白熱した質疑応答がなされ、非常に充実した講演会となりました。(文責 武藤)。
7月24日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
12月19日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
2014年11月28日におこなわれました学術講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
今回は、新潟大学教育支援センター特任助教の日下元及先生をお招きし、ご講演いただきました。
講演ではまず、出席者の多くにとって、馴染みの少ないナイジェリアの事情について、詳しく説明いただきました。
北部はイスラム教、南部はキリスト教の影響が強いといったように、ひとえにナイジェリアといっても、宗教、言語は地域によってさまざまです。
そうした中、国民文学として位置づけられているものは、英語で書かれてきました。
アフリカの必読書ともいわれるナイジェリア文学に、今日教科書にも掲載されているChinua Achebeの "Things fall apart"(1958)があります。
1880年代のイボ族の村をあつかったこの小説は、欧米人中心である既存のスタイルに対し、ナイジェリア人の視点から描いたものとして高い評価が与えられています。
このほか、Achebeの後世代に属するChris Abaniの "Song for night" やChimamanda Ngozi Adichieの "Half of a yellow sun"について、くわしく解説いただきました。
講演は2時間近くにおよび、その後懇親会で出席者と白熱した議論がかわされました。
(文責 武藤)
11月28日(金)に学術講演会を開催します。 以下のとおり、ご案内申し上げます。
以下の通り学術講演会を行います。講演会は公開ですので、どうぞ奮ってご参加下さい。
以下の通り学術講演会を行います。講演会は公開ですので、どうぞ奮ってご参加下さい。
2013年12月6日におこなわれました学術講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
今回は、元金沢大学教授の安村典子先生をお招きし、ご講演いただきました。
世界最古の叙事詩である『イリアス』の日本における紹介は、お雇い外国人として東京帝国大学で西洋古典学を講じたラファエル・フォン・ケーベルにより先鞭がつけられました。
まさに、19世紀のことです。
『イリアス』という叙事詩が出現したトロイア伝説圏(B.C.1000-800頃)は、ミュケーナイ文明が崩壊し、富と権力の一極集中がくずれ、「市民」が誕生した時期にあたります。
『イリアス』には、「ゼウスの屋敷に置かれた2つの瓶」の話があります。1つには悪いことが、もう1つには善いことが入っており、「この2つを混ぜて賜わった者は、ある時は不幸に遭うが、幸せに恵まれることもある。悪いことばかりを賜った者は、人に蔑まれる身に落され、彼を激しい飢餓が尊い大地の上を追い廻し、神々にも人間にも顧みられずにさまよい歩くことになる」とされています。
この一節の解釈をめぐっては、幸いの瓶が1つと禍いの瓶が2つの計3つであったとするピンダロスの説と、幸いの瓶1つと禍いの瓶1つの計2つとするプラトンの説があります。安村先生は、ピンダロス説のように、瓶が3つあったという立場をとられています。この3つの瓶の掛け合わせでは、幸いと禍いが半々か、禍いばかりとなり、幸福だけというケースはなくなります。
安村先生は、こうした「ゼウスの屋敷に置かれた2つの瓶」をもとに、『イリアス』が「人の世の移り変わりは木の葉のごとく」と歌っているように、人間は悲惨な存在であるという厳しい人間理解を示していたことを説明されました。
安村先生のご報告ののち、活発な質疑応答が交わされました。ニーチェのイリアス理解や仏教思想との異同など、たいへん幅の広い、実りある議論をおこなうことができました。
(文責 武藤)
2013年12月2日におこなわれました学術講演会について、下記の通りご報告申し上げます。
[第1報告]伊藤博明先生
「イコノロジーの誕生−アビ・ヴァールブルク(1886-1929)と美術史の転換」
ヴァールブルクの遺した「ムネモシュネ・アトラス」の翻訳という快挙を成し遂げられた伊藤先生は本講演においてヴァールブルクの「イコノロジー」概念を明確化することによって、ヴァールブルクのいわば文化史家としての処女作とも言えるスキファノイア宮壁画についての論攷から「ムネモシュネ・アトラス」に至る仕事に一貫する方法論を明らかにしようとされた。伊藤先生は、ヴァールブルクにとってある図像表現が、政治史、思想史から風俗史までを含む歴史的文脈において、いかに機能したかを解明することが生涯変わらぬパトスであったことを情熱的に語られた。このご講演によってヴァールブルクのイコノロジー概念が美術史におけるそれよりもはるかに広大で深い人間学的射程をもつ概念であることが浮き彫りにされた。
[第2報告]根占献一先生
「パドヴァ大学と『レーゲンスブルク対話』間のガスパロ・コンタリーニ」
今回で二度目のご講演となる根占先生は伊藤先生とともにイタリアルネサンス研究の第一人者のお一人であることは周知のことである。今回はルターによる宗教改革後、カトリック教徒としてもっとも早く宗教改革に理解を示し、プロテスタント信者との対話を模索し「レーゲンスブルク対話」に法王の特使として参加したガスパロ・コンタリーニーについてご講演いただいた。19世紀にコンタリーニの記念碑的研究を表したドイツの学者フランツ・ディットリヒの研究に言及されながら根占先生はコタリーニの生まれ育った15世紀末から16世紀半ばに至る時代の精神的風土を彼が学んだパドヴァ大学を中心に描き出された。そこに見えてくるのはマルシリオ・フィチーノ以来イタリア・ルネサンスの新プラトン主義的環境であった。1540年代に入りローマ法王庁が対抗宗教改革に舵を切りプロテスタントとの対話が打ち切られる中コンタリーニは1542年になくなる。その墓所は生まれ故郷ヴェネチアの、画家ティントレットも眠るマドンナ・デロルト教会だということである。通常、宗教革命と対抗宗教改革との争いと捉えられる歴史事象の背後にこのような和解への努力があったことをガスパロ・コンタリーニという人物を通して明らかにされた根占先生のご講演は聴衆に深い感銘を与えた。
(S. K.)
2013年11月30日におこなわれました学術講演会について、ご報告申し上げます。
今回は、華東師範大学の唐権副教授をお招きし、19世紀にみられた日本と中国における性科学の伝播とその受容のありかたに関し、報告いただきました。
唐先生によれば近年、中国で「再発見」された性啓蒙書の1つに、1901年に出版された『吾妻鏡(ウチジン)』があります。本来、鎌倉の将軍記である「吾妻鏡」が、なぜ性啓蒙書のタイトルとなったのか。その背景には、頼山陽による「悪事満載」といった吾妻鏡批判の影響などが考えられるとのことでした。
性科学の漢訳書は19世紀に入ると、中国で宣教師らにより出版されるようになります。ただ、その中国内の影響は限定的で、むしろ開国後の日本で、その翻刻・和訳本が広く受容されました。この漢訳本の影響をうかがい知る1つの要素として、「造化機」という概念があります。セクソロジーを意味する「造化機」をタイトルとした書物は、1875年から91年の間に89点も出版されているそうです。明治20年を境に、この「造化機」という言葉は、「衛生」や「生殖」にとってかわられました。
この「造化機」論は日清戦争後、今度は中国で日本にみならい、取り入れるべき学問として重視されるようになります。日本語の「造化機」論も、中国で多くの読者を獲得するにいたります。その内容は、いわゆる3種の電気説など、今日の観点からみると、非科学的な内容が目立ちますが、こうした言説は、20世紀に入ってからも優生学などともからめ、真剣に論じられました。また、こうした西洋の性科学の受容については、伝統的な房中術との関連も考える必要があるとのことでした。
唐先生のご報告の後、フロアとの間で活発な質疑応答がなされました。これまでの「19世紀学」にはない、斬新な切り口の研究で、大いに知的関心を刺激させられた講演会でした。
(文責 武藤)
以下の通り学術講演会を行います。講演会は公開ですので、どうぞ奮ってご参加下さい。
3月18日に開催いたしましたシンポジウムについてご報告申し上げます。
シンポジウムでは、まず松本彰、谷喬夫、早瀬晋三の3氏が以下のような基調報告をし、これをうけて野村眞理氏がコメントをおこなった。
松本彰報告「戦争と国民国家 ー19世紀と20世紀、ヨーロッパとアジア」は、「20世紀の戦争と国民国家」を問題にする前提として、ヨーロッパの1600年以降の近代国家成立過程をとりあげ、次に19、20世紀以降の戦争記念碑を紹介し、さらに「国歌に歌われたドイツ」として、ドイツ、オーストリア、プロイセンの国歌を素材に、ドイツにおける国民概念の複雑さを説明した。
谷喬夫報告「ナチ・イデオロギーと国民国家の解体」では、19世紀末以来のドイツ政治思想史を検討する中で、ナチズムがヨーロッパの人種イデオロギー的再編、広域秩序を目指すものだったとして、帝政期の右翼思想とナチズムの連続と断絶を問題にした。
早瀬晋三報告「東南アジアにおける二つの世界大戦と国民国家」は、東南アジアにおける国家意識を象徴するものとして、マレーシア国家記念碑(1966年)とそこに移築された戦争記念碑(1921年)を紹介し、東南アジアの歴史の複雑さを象徴する「マンダラ国家」の存続について説明した。
野村眞理コメントでは、国民国家形成の3類型として、1)「民族自決と国民国家的独立が内容的におおむね一致した」フランス、ドイツ、2)民族自決と国民国家的独立が一致しない地域で、強引に一致が強行された型、東中欧諸国、3)民族自決と国民国家的独立の一致がほとんど不可能な型、東南アジアのマンダラ国家、を指摘し、とくに第二類型の複雑な民族問題、ユダヤ人問題について説明した。
その後、全体討論では幅広い議論が展開した。シンポジウムは「20世紀の戦争と国民国家ヨーロッパとアジア」と題したが、19世紀の以降の「戦争と国民国家」をめぐるさまざまな問題が議論され、19世紀学学会としての課題を再認識させられた。今回、文化的に大きく異なるヨーロッパのドイツ、中欧とアジアの東南アジア地域をテーマにしたが、さまざまな地域の研究者が参加し発言したため、国家や民族について、抽象的な議論にとどまらずに、「海と陸」、「民族と言語」など、具体的な問題に即して、多彩な問題について討論できたことは大きな成果であった。
(松本彰)
2月28日に開催いたしました学術講演会についてご報告申し上げます。
今回の学術講演会は、Bielefeld大学より、David Gilgen先生をお招きし、ご専門である経済史の観点から、19-20世紀におけるGlobalisationをめぐるドイツの論争を、Angstという概念をキーワードにお話いただきました。講演は、報告ペーパーが用意され、英語でおこなわれました。
19世紀末、ドイツでGlobalisationのプロセスが本格化し、経済構造は世界市場と深く結びつくようになりました。これにより、ドイツの化学工業などは恩恵をうけた一方で、農業部門は大きな打撃をうけ、労働者の都市への流出といった「社会問題」をもたらしました。ただ、Gilgen先生によれば、Globalisationがドイツ経済を総体的に損ねることはなかったとしています。
Globalisation下におけるAngstは、既存の秩序の変容に対する反応であり、それは宗教や政治的な文脈で語られることとなります。対象が具体的なFearと違い、漠然とした心理状態であるAngstは、他者との接触が多くなるにつれ高まります。Globalisationをめぐっては、ドイツでも「第1の波」といえる1873年の恐慌より論争がみられますが、閉鎖経済に回帰するような主張は現実性に乏しく、その後も進展したGlobalisationにより、ドイツ経済は総じて利益を得てきたと考えられます。1980年代からGlobalisationの「第2の波」に直面している我々は、このAngstがもたらす影響をふまえつつ、Globalisationに対してゆく必要があることでした。
Gilgen先生の報告の後、森田直子先生よりコメントをいただきました。また、これに対するGilgen先生のリプライがあり、フロアからも多くの質問、意見がありました。GlobalisationとAngstという歴史的かつ今日的問題について、実りある議論をおこなうことができました。
(文責 武藤)
以下の通り国際学術講演会、シンポジウムを行います。講演会・シンポジウムは公開ですので、どうぞ奮ってご参加下さい。
1月12日に開催いたしました学術講演会についてご報告申し上げます。
当日は、悪天候の中、20名近くの方に参加いただきました。
今回の学術講演会は、2部構成で、14時より鈴木佳秀先生の開会の辞の後、第一講演の田中咲子先生に「古代ギリシア美術史研究の現在」について、ギリシアの墓碑浮き彫りをもとにお話いただきました。
19世紀より始まった墓碑研究は、形式・様式の変遷にもとづき整理されてきました。
まず「握手墓碑」など、これまでの墓碑研究の流れ、およびJ・ベルゲマンやK・スポルンをはじめとする近年の研究動向を紹介した後、田中先生はケーススタディとして、紀元前6世紀の「運動選手墓碑」を、「競技者タイプ」、「アリュバロス・タイプ」、「エロメノス・タイプ」の3つに分類し、豊富な資料をもとにそれぞれの特徴を説明されました。
「競技者タイプ」はやり投げやボクシングなど、まさに競技者を描いたもの、「アリュバロス・タイプ」はオイルを入れた小瓶を携帯し、若い運動選手を表現したもの、「エロメノス・タイプ」は少年愛のモチーフがみられる図像です。
この前6世紀に継起的にあらわれた3つの「運動選手墓碑」タイプが、その後の運動選手像のプロトタイプとなっているとのことでした。
つづいて、第二講演では、根占献一先生に「ルネサンス・ヒューマニズムと近代」について、イタリアとドイツの視点から講演いただきました。
根占先生のご専門であるイタリア・ルネサンス研究において、19世紀は何よりも、J.ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』初版が1860年に出た時代として位置づけられるとのことです。ブルクハルトらの活動は、イタリア統一運動、リソルジメントの時代と重なります。
また、『イタリア・ルネサンスの文化』の前年に出されたG・フォークト『古典古代の再生すなわちフマニスムスの最初の世紀』は、ヒューマニズム概念と時代とを結びつけたものとして、極めて重要な研究書とされます。この書はドイツ語からイタリア語へと翻訳されており、この時期イタリアとドイツの間に相互的な思想交流があったことが確認できます。
お話によると、ルネサンス、およびヒューマニズムという術語は、19世紀に生まれた新概念で、ドイツ文化に起源が求められるとのことでした。すなわち、19世紀後半に、これらの語に新しいドイツ的響きが付与されたわけです。
田中、根占両先生の講演の後、それぞれ細田あや子先生、逸見龍生先生よりコメントをいただきました。また、これに対する両先生のリプライがあり、フロアからもさまざまな質問、意見がありました。計4時間におよんだ講演会でありましたが、最後に菅原陽心先生に講演会の総括をいただき、非常に密度の濃い、実りある議論を交わすことができました。
(文責 武藤)
下記の通り、学術講演会を開催いたします。
12月15日に開催いたしました19世紀学研究所と環東アジア研究センター共催のシンポジウム「〈封建〉を考える」についてご報告申し上げます。
当日は、雨模様の天気でしたが、シンポジウムは予定の15時すぎより開始され、まず帝京大学特任教授の今谷明先生よりご報告いただきました。
現在、封建制、feudalismという概念は、あまり注目されず、使用そのものを避けるような傾向がありますが、今谷先生は今こそ、封建制を論ずるべきでないかと提起されました。その上で、近世以来の日本人と外国人による、「封建」にまつわる日本社会論を説明いただきました。
徳川時代、荻生徂徠ら儒者が当時を「封建」と称し、シーボルトもfeudalismと認識したように、日本の近世社会を「封建」、feudalismととらえる視点がありました。幕末開国後、福沢諭吉らによってfeudalismが「封建」と訳されましたが、この「封建」には否定的な意味が込められるようになりました。
興味深いのは、重野安繹ら官学アカデミズムにより当初、否定された日本史における封建制の存在が、日清・日露戦争がになると、福田徳三、三浦周行、中田薫らにより積極的に主張されるようになることです。
封建制に対する評価はその後、マルクス主義史観の影響が強まると再び否定的となり、戦後復興期には梅棹忠夫『文明の生態史観』などで再度、肯定的な意味が付されるようになりました。今谷先生は、こうした「封建」をめぐる議論の中で、これまで注目されてこなかった島崎藤村の日本封建論にみられる着眼点のするどさを指摘し、西欧留学で得たのこの着想が、『夜明け前』にもつながっていることを示唆されました。
今谷先生の報告につづき、上海の復旦大学教授である張翔先生より、ご報告いただきました。
「封建」、すなわち「封邦建国」は、もともと政治権力の分権化した状態を表し、政治的な意味合いが強い語でありますが、張先生によると、もっと経済史的、社会史的、文化史的な視点を組み込むべきだとの意見が、中国国内でもみられるとのことです。この曖昧さが残る「封建」という概念について、まず「郡県」と対比しつつ、いくつかの特徴を提示されました。
マルクス・レーニン主義に代表される歴史観では、封建制は1つの発展段階とみなされますが、張先生は封建制がそもそも普遍的・段階的にみられる現象なのかを、改めて問う必要性を指摘しています。
「封建」、「郡県」をめぐっては、古来より中日両国においてさまざまな議論が交わされてきました。柳宗元や荻生徂徠のように、封建制を強く擁護する意見もあれば、顧炎武や山鹿素行のように、「封建」と「郡県」のよいところを折衷するような主張もあります。こうした様々な中日知識人による「封建」・「郡県」論について、例をあげつつ、詳しく説明いただきました。
以上のような、今谷先生、張翔先生にご報告いただいた内容について、それぞれ活発な議論をおこない、実りあるシンポジウムをおこなうことができました。
(文責・武藤)
下記の通り、シンポジウムを開催いたします。
9月29日に開催いたしました19世紀学学会と人文学部国語国文学会共催の学術講演会「都市の19世紀 -- 西洋と日本」についてご報告申し上げます。
当日は、学外の方も含めて、約50名の方にご来場いただきました。
研究会は、14時すぎより開始され、19世紀学学会理事である菅原陽心先生による開会の辞ののち、白幡洋三郎先生にご報告いただきました。
白幡先生は、庭園研究の第一人者として知られていますが、その対象は、博覧会から都市計画、社交場の研究など、きわめて多岐にわたっています。
今回の講演では、まず白幡先生がこうした幅広い研究をするにいたった経緯についてお話いただきました。
白幡先生は、もともと農学部の出身で、西洋の庭園を学ぶためにドイツへ留学した際、当地では日本の庭園のことばかり、尋ねられたそうです。
それが契機となり、自国の庭園に改めて関心を持ち、日本と西洋の比較研究をおこなうようになったとのことでした。
日本と西洋が、互いに庭園をはじめとする都市構造に注目するようになったのは、19世紀半ばの開国以後になります。
西洋人が緑豊かな日本の田園都市風景に着目したのに対し、日本人はレンガ造りの荘厳な建物に目をうばわれたことを、当時の見聞記をもとに分かりやすく説明いただきました。
その後、西洋はブレーメンのように撤去した城壁跡の緑化をすすめ、日本は西洋風の建築物をつぎつぎとたててゆくわけです。
そのような意味で、日本と西洋がお互いに刺激をうけ、今日につながるような都市を形成していったという指摘は、ともすれば西洋から日本への一方的な影響に目をとらわれがちな中で、非常に興味深いものでした。
講演の後、時間の関係で、フロアからの質疑を十分におこなうことがかないませんでしたが、たいへん充実した講演会を実施することができました。
(文責・武藤)
下記の通り、学術講演会を開催いたします。
8月3日に開催いたしました19世紀学学会、19世紀学研究所、環東アジア研究センター共催の研究発表会「韓国併合と冊封体制下の国家意識」についてご報告申し上げます。
当日は、会場となった第一会議室に設けた席がほぼ埋まる、計17名の参加者がありました。
研究会は、定刻の17時より開始され、環東アジア研究センターの関尾史郎先生による開会の辞ののち、新城道彦先生のご報告いただきました。
新城先生は、日本と朝鮮の近現代史が専門で、昨年末に博士論文をまとめた著書『天皇の韓国併合』を法政大学出版局より公刊しています。
今回の報告は、これまでの研究をもとに、韓国併合にみられる柵封体制の観念を、韓国側からの視点から分析いただきました。
一般的に、韓国併合については、これまで日本側が国際法にのっとった条約締結につとめながら、他面で旧来の冊封体制観念にひきずられていた面が強調されてきたように思われます。
これに対し、今回の報告では、むしろ韓国側の方が、冊封体制下の国家意識に大きくこだわっていたことが指摘されました。
その事例として、条約締結にいたる交渉のプロセス、具体的には国号や王称、勅使差遣の際の面位をめぐる交渉などをもとに、分かりやすく説明いただきました。
韓国側の姿勢と比較すると、日本はむしろ冊封体制を意味をなさないものとみなしていたとのことです。
この新城先生による1時間の報告後、フロアとの質疑応答があり、大韓帝国という国号がどの程度もちいられていたのかや、ヨーロッパの帝国意識との比較、英語への翻訳問題などについて、活発な議論がかわされました。
1時間という予定の時間を過ぎても質疑がつきることなく、非常に実りの多い研究会となりました。
(文責・武藤)
下記の通り、研究発表会を開催いたします。
3月10(土)におこないました研究発表会について、ご報告申し上げます。大学の後期入学試験などをひかえ、年度末のお忙しい最中、計18名の方にご参加いただきました。とくに、報告いただいた方々には、この日のためにいずれも遠路より新幹線にておいでいただきました。ここに、厚く御礼申し上げます。
研究会は、予定通り13時より開始し、菅原陽心理事のご挨拶の後、5名の学会員よりそれぞれ約50分にわたる研究報告、および質疑応答をおこないました。
まず、塚田花恵氏には、1830年代にパリで刊行された代表的な音楽雑誌である『ピアニスト』と『ガゼット・ミュジカル・ド・パリ』のレビューをもとに、フランスにおいてドイツの器楽観が受容されてゆく過程を報告いただきました。ショパンに対し、当初技術的な難点を指摘していた『ピアニスト』は、『ガゼット』のプロイセン出身レビュアーによる全面的な評価の影響をうけ、フランスの伝統的な器楽観にもとづく評価を否定するようになります。この評価の変化について、実際に音楽を流し、素人にも分かりやすく説明いただきました。
寺島宏貴氏には、19世紀後半の日本がとりいれた「文明」のルール=「公論」が、『官板バタヒヤ新聞』や『中外新聞』など、初期新聞にどう現れたのかをご報告いただきました。public opinion形成にその使命をみとめた初期新聞は、建白書の投稿をひろく一般に求めた一方で、「虚説」の流布防止をたてにした政府の圧迫をうけ、その管制下におかれてゆくこととなります。ただ、「官許」という規制をうけつつも、こうした新聞が民権期を準備してゆくという指摘は、たいへん示唆に富むものでした。
松井尚興氏には、ゲーテの小説『親和力』について、その恋物語の中に隠された科学や競争に対する風刺など、作者の意図について報告いただきました。松井氏の分析によれば、ゲーテは、この物語の舞台となった小さな領邦国家の風景に、人体や天体の描写を重ねあわせた上で、古代以来の様々な学説や、ゲーテの時代に画期的な発展を遂げつつあった自然科学の諸理論への風刺がこめられていることを指摘され、『親和力』の新しい解釈の可能性を示唆されました。氏のテキスト解釈は、非常に斬新で、現在とりくんでおられるという『親和力』の日本語訳を、待ち遠しく感じた次第です。
佐藤直樹氏には、19世紀のローマにおける芸術家たちの国際的交流について、ドイツのヨハン・クリスティアン・ラインハルトを中心に報告いただきました。ラインハルトにより、遺跡ではないローマ近郊の風光明媚な景観が再発見された一方、彼がルートヴィヒ1世の依頼で、ローマのヴィラ・マルタから望む東西南北のパノラマ風景画を描いた前後には、イギリスやフランスの画家たちもローマのパノラマ風景を素描しており、国際的な情報交換があったことが推測できるとのことです。この国際交流について、実際の絵画を例に、非常に分かりやすく説明いただきました。
大角欣矢氏には、18世紀末から19世紀初頭にかけてベルリンで活躍したユダヤ人音楽家ザラ・レヴィについて、ご報告いただきました。ユダヤ啓蒙主義にもとづく教育をうけたザラ・レヴィは、ユダヤ的伝統にもとづいた保守的傾向を持し、音楽趣味においても保守性を保っていました。しかし、彼女が所有し恐らく演奏したであろう楽曲を詳細に分析することによって、大角氏は、保守的価値観を、パフォーマンスを通じて転覆させるような一面を持っていたであろうことを指摘されました。この点について、実際の音楽と楽譜をもとに、明快に解説いただきました。
このように、今回の報告者の専門は、音楽、美術、文学、歴史と、東西多岐にわたりましたが、19世紀学を総体的にとらえる必要性を再認識した、非常に実りある研究会となりました。
(文責・武藤)
国際シンポジウム「ドイツ・ロマン派の時代の危機意識とユートピア」
2月26日夜にドイツ・ビーレフェルト大学からWolfgang Braungart教授(ドイツ文化)、Jan Andres博士(ドイツ文化)、それとオーストリア・ザルツブルク大学Thomas Schirren教授(古典学)が新潟にお着きになりました。ビーレフェルト大学言語文学部長であるKai Kauffmann先生はご都合のため今回は来潟できませんでしたが、お詫びと国際シンポジウムの盛会を祈る、丁寧なメッセージをお寄せくださいました。
2月27日お昼に菅原陽心19世紀学研究所所長を表敬訪問され、和やかに歓談いたしました。菅原先生は、フルート演奏でドイツからのお客様をもてなされ、Braungart先生以下大変に喜ばれました。
2月28日、29日とシンポジウムを開催いたしました。今回は「ドイツ・ロマン派の時代の危機意識とユートピア」と題し、ドイツ語によって行いました。
18世紀と19世紀の交わる頃、ドイツ・ロマン派の時代の人々はイギリス産業革命、フランス革命に象徴される「近代」の問題と直面し、独自の思想と将来のヴィジョンを展開いたしました。それから200年経った現在、私たちは「近代」の一つの帰結としての危機を体験しております。この「今」からドイツ・ロマン派の思想と文学を読み直すことによって何が見えてくるのかを考えてみようというのが今回のシンポジウムの趣旨でした。
ロマン派の時代からおよそ二世紀を閲した今、様々な困難を孕む今に生きる私たちがユートピアに対して懐疑的にならざるをえないのは避けがたく、そのことが過去の対象の解釈に、意識するとしないとにかかわらず、ある種の影響を与えていることは否定し得ない事実でしょう。しかしながら、彼らが構想した、ないしは構想しようとしたユートピア、たとえそれがどんなに微かなものであったとしても、それと今一度真剣に向き合い、過去の「あり得たかもしれない可能性」について考えることが、混沌の「今」にあって、必ずしも無益なことではないだろうと考えた次第です。
議論は、神学、神秘思想、自然科学、歴史・政治意識、言語論、文化批判等多岐にわたり、白熱いたしました。大幅に時間を超過し、29日は昼食をとりながらの議論となりました。結論はもとより求めておりませんでしたが、幾つかの論点において理解が深まり、対立点が明らかとなり、今後数回のシンポジウム開催に十分な問題点を明確化することができたのが、最大の成果だったと考えています。
簡単ながら国際シンポジウムの報告をいたします。
(文責:S.K)
問合せ先: emimatsu(@)jura.niigata-u.ac.jp
Tel./Fax: 025-262-6490(松本)
* チラシ * 趣旨説明
シンポジウム「庭園と文学」
2012年1月21日、午後1時半より定刻通りおこなわれましたシンポジウム「庭園と文学」のご報告をいたします。当日はまず、菅原陽心先生による開会の辞の後、本学の教授である桑原聡先生、佐々木充先生、錦仁先生に、それぞれ専門の立場から「庭園と文学」についてご報告いただきました。
桑原聡先生には、「ドイツ・ロマン派文学とイタリア庭園」について発表いただきました。ドイツ・ロマン派文学にみえる庭園描写を解く鍵が、イタリア庭園にあるとした上で、16世紀後半にイタリア・バニャイーアに造園されたイタリアルネサンス庭園「ランテ荘」がとりあげられました。この「ランテ荘」を、人間の黄金時代から人間の堕落を経て楽園の復活に至るストーリーとして読解し、ドイツ・ロマン派文学に描かれる幻想庭園のユートピア指向との構造上の類似を明らかにした内容は、門外漢にとっても非常に示唆に富むものでした。
佐々木充先生には、「詩人と庭」、具体的には「ワーズワスとダヴコテッジ・ガーデン」の関連ついてお話いただきました。まず、イギリス風景式庭園、とりわけピクチャレスク美学について詳細に紹介した上で、ワーズワスが自らの体験を、このピクチャレスク的観念とは違う次元にまで高めていたことが指摘されました。ダヴコテッジ・ガーデンは、風景式庭園でもなく、普通のコテッジでもなかったそうです。イギリス・ロマン派の詩人であったワーズワスの思索・詩作が、この独特なダヴコテッジ・ガーデンと密接につながっていたことを、よく理解することができました。
錦仁先生には、「和歌と庭園」についてご報告いただきました。まず、藤原頼通の息子であった橘俊綱が記した『作庭記』をとりあげ、その内容からうかがえる王土を集約、凝集した美の人工的空間としての性格を説明されました。これは、『古今和歌集』の世界・宇宙・構造とそのまま相通ずるもので、さらには歌合で飾られる洲浜にも、同様の見立ての空間を読みとることができるとのことです。また、日本の和歌には、宮殿の外部を歌ったものがなく、いずれも内側からその世界を歌っているとの指摘は、「庭園と文学」を考える上で、ヨーロッパとは異なった大きな特徴の一つなのではないかと、非常に興味深く感じました。
この3先生のご報告の後、報告者とフロアとの間で活発な意見が交わされました。ドイツ、イギリス、日本と、「庭園と文学」というテーマのもと、国際比較におよぶスケールの大きな議論をおこなうことができました。
(文責:武藤)
以下の通りシンポジウムならびに19世紀学学会研究発表会を行います。シンポジウムは公開ですので、どうぞ奮ってご参加下さい。
シンポジウム「博覧会と近代日本」
2011年11月12日、午後1時半から予定通りおこなわれましたシンポジウム「博覧会と近代日本」のご報告をいたします。当日はまず、桑原聡先生による開会の辞、および趣旨説明の後、お招きした学習院大学東洋文化研究所客員研究員の伊藤真実子先生、国際日本文化研究センター准教授の佐野真由子先生、帝京大学准教授の濱田陽先生に、それぞれ約45分のご報告をいただきました。
まず、伊藤真実子先生には、18世紀の寺島良庵『和漢三才図会』、貝原益軒『大和本草』から、明治以降の『百科全書』、『古事類苑』まで、そして万博への参加、および内国博覧会を開くにいたる流れを報告いただきました。『三才図会』や『本草綱目』など、漢書を基礎としつつ、18世紀以降、薬物調査などの進展とともに、文献考証中心だった本草学に、物産学がむすびつき、博物学化していったこと、また19世紀初頭にショメルの『百科全書』が翻訳された際、アルファベット順の分類が、天文・地土、鉱物といったように分類し直されたことなど、輸入学問をとりいれながらも、独自の変容をとげた日本の知のありようをくわしく説明いただきました。幕末以降の万博参加、内国勧業博覧会も、こうした知の流れに立って考察しなければならないことを改めて感じた次第です。
佐野真由子先生には、日本の品物がはじめて展示された1862年の第2回ロンドン万博をめぐる主催者、媒介者、参加者という3者のそれぞれ複雑にからみあった意図やまなざしについて報告いただきました。主催者であるイギリス政府は当初、参加国からよせられた文物を、今日のような各国ごとのパビリオンでなく、自らが定めた40項目のもとに改めて分類することを考えていました。また、媒介者役をつとめた駐日総領事のオールコックは、万博への出品を、みずからのキャリアの集大成と位置づけていました。他方、参加者側であった幕府役人は、現地でオールコックが選定した骨董品のような日本の出品物をみて、不満をいだきつつも、漆器の精巧さを誇らしげに感じていました。このように三者三様、さまざまな思惑があったとのご指摘は、さまざまな角度から万博を考える必要性を再認識させるものでありました。
濱田陽先生には、明治時代から今日にいたる日本の博覧会と宗教の関連について報告いただきました。日本ではじめて「博覧会」と銘うたれた1871年の京都博覧会の会場が、西本願寺であったように、日本の博覧会は当初から宗教と関わりをもっていました。また、1893年のシカゴ万博では平等院鳳凰堂を、1900年のパリ万博では法隆寺金堂を、それぞれ模した日本館が建造されました。こうした博覧会と宗教の結びつきは、戦後までひきつがれ、1947年に善光寺開帳平和博覧会、1950年に金沢で宗教平和博覧会が開かれました。最近では、南紀熊野体験博といった「こころ」や「癒し」をテーマとした新しい博覧会の動きがあり、博覧会において宗教の果たす役割が再び重要になってくるのではないかという指摘は、非常に示唆に富むものでした。
この3方のご報告の後、新潟大学の蓮田隆志先生よりコメントをいただき、報告者と参加者の間で活発な意見が交わされました。普遍性と地域性、ドイツの事例との比較など、「博覧会と近代日本」というテーマのもとに、幅ひろい実りある議論をおこなうことができました。
(文責:武藤)
以下の通りシンポジウム「博覧会と近代日本」を開催いたしますので、どうぞ奮ってご参加下さい。
*やや分かりにくい場所にありますので、不案内の場合は下記
連絡先までお問い合わせ下さい。
「博覧会と近代日本」
*チラシ(PDFファイル)も併せてご参照下さい。
2011年度の学会誌の情報を更新しました。左のMENUからご覧下さい。
5月28日の講演会を滞りなく終了したことをご報告いたします。
土曜日の午後にご来場下さった方々には心より御礼を申しあげます。
武藤 秀太郎 「19世紀学と日本知識人」
本報告では、日本における「19世紀学」の成立事情をさぐる1つの手がかりとして、近代商業教育機関のはじまりといえる商法講習所の設立経緯を、森有礼や渋沢栄一など、当事者の意図に着目しつつ考察をおこなった。
シンポジウム
「裂開する世界図絵ーー近代ヨーロッパの〈庭園〉表象における欲望・創出・媒介」
19世紀学研究所主催、人文学部・19世紀学学会共催による標題シンポジウムが3月10日に開催された(於五十嵐キャンパス人社系棟第一会議室、午後2時から午後6時まで)。2名の報告者を招いたものである。
最初に19世紀学学会事務局長の桑原聡教授による司会挨拶、そして主催者代表として19世紀学研究所所長、菅原陽心教授による開会挨拶の後、逸見が今回のシンポの趣旨説明を行い、議論に入った。
シンポジウム表題の「世界図絵」Orbis pictusは、教育学におけるいわゆる「絵入り教科書」や「絵本」の意味に限定されない。報告者のお一人、鷲見洋一氏が著書『百科全書と世界図絵』で指摘しているように、古典古代の記憶術にまで遡行する普遍学構築への試み、言葉と事物の蒐集と分類を通じての世界や自然の視覚化・形象化に駆られてきた、人類知における特権的表象を指す。例えばダランベールがその「百科全書序文」で、『百科全書』を指して「世界地図mappemonde 」と呼んだのもそうした表象の系譜の一例である。宇宙や世界を人間的なサイズに転換したかたちで再現=投影する〈鏡〉の装置としての「世界図絵」。そこには、百科全書のような事典のみならず、博物誌、ミュージアム、そして庭園術などの知の形態や制度、メディア、空間もまた含まれるであろう。
では、19世紀における近代への転換期、古代から近世に至るまで保持されていたこの知のシステムにいかなる変容が見られたのか。その事例の一つとして、〈庭園〉を具体的な分析の主題としたのが今回のシンポジウムの趣旨である。
安西信一氏(美学・東京大学)は、「コテージ・ガーデンー内向するイングリッシュネス」と題して、19世紀における英国庭園の事例を取り上げた。18世紀の開放的かつ拡張的なイギリス式風景庭園の流行ののち、19世紀にはそれとは一見するとまったく逆の特徴を持つ、懐古的で静謐なコテージ・ガーテンが、英国の本質を表象するものとして国民生活のなかに根付いていった。コロニアリズムの急激な伸張により国家の規模が拡大していく過程で、庭園の表象はむしろその鏡像のように内向化していったのである。ここではいかなる転換が起こったというのか。氏は、庭園という空間の様々な属性が、19世紀近代以後の社会的・政治的・経済的コンテクストの変容とともに、その意味作用と価値を多元的に遷移していったことを同時代の言説を分析しつつ指摘した。産業革命による都市の疲弊、階級格差の拡大、博愛主義的救貧運動など様々なファクターを通じ、英国の「想像上のアイデンティティ」としてのノスタルジックな価値をコテージ・ガーテンが徐々に獲得していく軌跡が明晰に論じられた。「庭園=田園」は、もはや古典的規範からなる均質的な共同体の美の理想であることをやめ、多様な階級の利害が複雑に入り組んだアイデンティティの抗争の場に変貌していったのである。
鷲見洋一氏(仏文学・慶応義塾大学名誉教授・中部大学)の報告「直接性から間接性へー表象領域の変容と転換」は、19世紀からの知の転換のパノラマを様々な領域に通観し、これを「間接性」をキーワードに読み解いた。身体、政治、経済、絵画、音楽、文学、伝達メディア、空間・時間・世界意識といったカテゴリーにおいて、アンシヤン・レジームまでの近世ヨーロッパの諸価値が、19世紀近代を経ていかに転換したかを検討した。多くの映像を使用しながらの報告はそれ自体として興味深く、学際的な様々な領域の流れをわかりやすく提示するものであった。例えば、フランスの場合、政治の領域では絶対主義、絶対王政から、代表制・議会制民主主義へ、すなわち国王一人の直接統治から、代表=代行者を選んで政治を行う間接政治へと、革命を挟んで大きく政治形態は変化した。コミュニケーションやメディアにおいても、相手の現前を前提する口頭の談話から、不在である不特定の他者へメッセージを託す活字文化への変容がそれに並行して進んだ。芸術のレベルにおいても、絵画では対象の写実から、現実対象を消し去り、主体の精神が全面に前に現れていく抽象絵画へと移行が進む。音楽においては、主和音を主体にして構築される和声システムである平均律から、音列間の形式的差異の構造がむしろ強調される平等な12音列システムへと楽曲が変容していく。氏は、これら多様なジャンルを通底して顕れる〈媒介〉の問題こそ近代の問題であると問題提起をした。モーツァルト、ワグナー、ドビュッシーのオペラにおける「庭園」の場面を、上述の視点から精密にテクスト分析をした結論部分はきわめて興味深かった。
報告予定者の一名がご家族の急病のため欠席されたのは残念であったが、報告後のディスカッションでも、多くの質問やコメントがフロアから提示され、熱気ある討議が一時間を超えて行われた。報告者の安西先生、鷲見先生、ならびに当日に参加された会員諸氏にはあらためて御礼申し上げたい。
(文責:逸見龍生)
3月に以下の通りの催しがありますので、どうぞ奮ってご参加下さい。
シンポジウム「裂開する世界図絵:近代ヨーロッパの〈庭園〉表象における欲望・創出・媒介」
懇親会
時間:午後7時頃より
場所:日本料理手しごとこじま(新潟市西区内野町526-1)
会費:未定
*チラシ(PDFファイル)も併せてご参照下さい。
シンポジウム「ミュージアム論--ミュージアムの現在」
ミュージアムという制度は、現在大きく変貌を遂げつつあります。それはそもそも19世紀から20世紀にかけて全盛を誇った啓蒙学習空間であり、19世紀に諸科学・諸学問が自立するのと並行して発展してきました。しかしながら遅くとも20世紀の終わりから、新しい学知が求められているのと呼応して、ミュージアムも新しい形を模索しているように思えます。日本に限っても、美術館は言うに及ばず、葛西臨海公園水族館以後の水族館、そして旭山動物園にその一端を伺うことができます。今、ミュージアムに何が求められているのか、その理由は何なのかを考えようというのが、今回のシンポジウムの意図でした。
今回は気鋭のドイツ文化研究者、千葉工業大学の安川晴基さん、新津美術館の学芸員である荒井直美さん、そして新潟市美術館学芸員を務められ、現在、砂丘館館長の大倉宏さんにお集まりいただき、それぞれの立場からお話ししていただきました。
安川さんは、「歴史博物館と集合的記憶のマッピング:ドイツ歴史博物館、ベルリン・ユダヤ博物館、<テロのトポグラフィー>」と題した講演で、20世紀末からベルリンに開館した三つの博物館をテーマに、それらがどのような背景で、何を目的として建設され、また、どのような議論があったかを詳細に論じてくださいました。歴史博物館と他の二館との建築デザインの違いがドイツ人の集合的アイデンティティ、自らの過去の想起の問題と密接に関わっていることを指摘されました。
荒井さんは、「新潟市新津美術館13年の軌跡」というテーマで、1997年に開館した新津美術館に当初から学芸員として携わられてきた経験をもとに地方公立美術館の限界と可能性についてお話しくださいました。皆さんご存じの通り、新津美術館は地方の公立美術館としては活発な活動を続けてきていますが、当初目指された自主企画による「発信型」美術館という姿勢を、この間の財政的、組織的問題から見直さざるを得なかったことを契機に、より来館者に近く、より地元に密着しつつ、なおかつ新津美術館らしさを失わない試みのいくつかを紹介してくださいました。アーティスト・イン・レジデンス活動によって地元の人々との共同作業を行い、あるいは学校などの施設に出前美術館を行ったりといった試みを通して、「価値を創造する機能体」としての美術館を目指されている様子を生き生きとお話しくださいました。
大倉さんは、東京芸術大学美術学部を卒業されてから新潟の画家佐藤清三郎の絵を見て回る目的で新潟に来られ、その後新潟市美術館に学芸員として5年ほど勤務された後、フリーとなられ画廊「新潟絵屋」を開かれ、さらに砂丘館を市民に開かれた展示施設として運営されています。大倉さんのこれまでの歩みは、日本におけるミュージアムの問題とその解決の試みそのものと言って良いでしょう。今回は「住まい・画廊・美術館」と題されたお話の中で、美術館が観る人からあまりにも遠いと感じられ、観る人と絵画を近づけるための試みとして日本家屋に絵を「飾り」、それを「画廊」とされ、新潟の下町の町屋という、次第に取り壊され数が少なくなってきている場をあえて記憶の場あるいは場所の記憶として絵画と融合させるというご自身の試みをご紹介くださいました。絵を飾るという点で「住まい」と「美術館」をつなぐものとして「画廊」を位置づけ、それを人々が気楽に絵に接する場とする美術展示三階論(住まいが一階、画廊が二階、美術館が三階)は、大倉さんの思索と実践が見事に一体化した論として聴く者に強い印象と感銘を与えました。
以上、簡単ながらシンポジウム「ミュージアム論--ミュージアムの現在」を報告いたしました。19世紀学研究の中でミュージアムを論ずるとどうしても抽象的になりがちであるという反省に基づき、今回のシンポジウムを企画したのですが、期待通りの、意義深いシンポジウムになったと喜んでおります。ディスカッションでは、新潟大学人文学部教授で新潟大学旭町学術資料展示館館長の橋本博文先生(考古学)にも加わっていただき、今後のミュージアムのあり方について議論を深めることができました。大学ミュージアムはどうあるべきかという刺激的な話題も提供されましたことを付記いたします。
当日は、雪のため足下が悪く寒かったにもかかわらずお集まりいただいた講演者の皆さま、聴衆の皆さまに心より御礼申し上げます。
次回は3月上旬と下旬にシンポジウムを予定しておりますので、どうぞこちらにもおいでくださいますようお願い申し上げます。詳細につきましては日が近づきましたら、また、ご案内いたします。
なお、このシンポジウムを開催するに当たりましては新潟大学人文社会・教育科学系研究プロジェクト経費の支援を受けておりますことを記し、厚く御礼申し上げます。(文責:SK)
*本報告をダウンロード(PDFファイル)して読むこともできます。
以下の通りシンポジウム「ミュージアム論 --ミュージアムの現在--」を開催いたしますので、どうぞ奮ってご参加下さい。
*やや分かりにくい場所にありますので、不案内の場合は下記
連絡先までお問い合わせ下さい。
「ミュージアム論 --ミュージアムの現在--」
シンポジウム修了後、懇親会を行います(講演者の荒井・安川氏も出席予定)。こちらにもどうぞご参加下さい。
*チラシ(PDFファイル)も併せてご参照下さい。
19世紀学学会員の皆さま
11月8日午後6時から、アンダース・ウィンロース先生(イェール大学歴史学部教授)とペーター・ランダウ先生(ミュンヘン大学法学部名誉教授)をお迎えし、研究会「近代的テクスト批判・史料批判の方法とその実践--教会法史における史料研究の現場から--」を開催いたしました。平日の遅い時間であるにも関わらず多くの方々にご出席にいただき、無事終えることができました。開催にご尽力くださった皆様、ご出席くださった皆様に厚くお礼申しあげます。(文責:源河達史)
以下の通り研究会を開催いたしますので、奮ってご参加下さい。
*やや分かりにくい場所にありますので、不案内の場合は下記
連絡先までお問い合わせ下さい。
趣旨説明は、PDFファイルをご参照下さい。
また、研究会後には両氏を囲んでの懇親会を行う予定です。参加をご希望の方は、遅くとも11月1日(月)までに下記連絡先まで出席の旨をお伝え下さい。
19世紀学学会員の皆さま
昨日19世紀学学会研究発表会および総会を無事開催することができましたことをご報告いたします。 津田先生の発表は、ベルリン大学創設以来の、19世紀ドイツの大学教育を概観した上で、19世紀後半に顕著になる大学教育改革の試み(「大学教育学運動」)を丁寧に跡づけられました。今日ますます重要となってきている大学教育改革に対する関心をもとに、19世紀ドイツでの実践を批判的に顧みる貴重なご発表でした。
松本先生の報告は、昨年2009年がヘンデル、ハイドン、メンデルスゾーンの記念(コメモレーション)の年であったことを直接の契機として、とりわけ19世紀以降の「音楽におけるコメモレーションの構造転換」を解明し、19世紀における「国民的記念碑」(記念碑の建立、国民国家の記念碑としての楽譜全集の公刊)から、特に第二次世界大戦後において顕著になる地域的・文化的「記憶」(記念物・歴史遺産あるいは古楽器による演奏など)へと「記念」のありようが変化していることを跡づける興味深いものでした。
津田先生、松本先生の発表・ご報告に対してコメンテーターの方々も含め活発な議論が展開され、時の過ぎ去るのを忘れるほどでした。学会員の発表を中心とした初めての企画でしたが、無事終了することができました。
30人強の参加者があり、また一般の方々が10人以上ご出席くださり、会を盛り上げてくださいました。この場を借りまして、発表者、参加者またご協力いただいた方々すべてにお礼申し上げます。
研究発表会終了後に総会を開催いたしました。資料を添付いたしますので、ご高覧ください。
(文責:S.K)
19世紀学学会研究発表会&シンポジウムの詳細が下記の通り決まりました。
ダウンロード用のチラシもご参照の上、どうぞ奮ってご参加下さい。
✽ 学会総会を除き、学会員以外の方のご参加も歓迎いたします。
6月26日・27日に日本18世紀学会新潟大会が開催される運びとなりました。
19世紀学学会のみなさまにもぜひご案内したく、学会プログラムを以下に添付のようにPDF化しました。洋の東西を超えて、美学、文学、経済学、思想史、哲学、文化史について語り合おうとする学会です。東京大学の 小田部先生など、本学会とご縁の深い先生方も多く、新潟大学(脳研究所)を会場として行われる今回の大会では、これを機会にぜひ19世紀学学会との相互交流の場になればよいと考えております。ぜひご参加くださる ようお願い申し上げます。なお、26日夜の懇親会(イタリア軒)では、19世紀学学会会長の鈴木佳秀先生もご挨拶くださる予定です。
✽ 事前の準備の都合もありますので、懇親会に参加される方は、できれば早めに逸見(hemmi(@)human.niigata-u.ac.jp)までご連絡願いたいと存じます。なお、古浄瑠璃公演とレクチャーについては一般の方も無料でご参加できます。
19世紀学学会員のみなさま
新緑の候、みなさまにはますますご健勝のこととお喜び申しあげます。
さて、前回の19世紀学学会総会で決定しましたとおり、学会員の研究報告の場ならびに交流の場として、研究発表会を開催することになりました。今年の研究発表会は7月10日(土)の午後1時からです。学会員であればどなたでも報告をすることができますので、以下について明記の上、5月16日(日)までに下記メール・アドレス宛に申し込み下さい。
・お名前
・ご所属
・報告タイトル(変更可)と数行の簡単な要旨
なお、報告テーマは「19世紀学」にかかわるものとし、報告時間は一人30分+質疑応答10分です。
19世紀学学会員各位
平成22年1月9日のシンポジウム「近代とミュージアムの成立」に合わせ、19世紀学学会の総会 が行われましたので、ここにご報告申し上げます。
学会長の鈴木佳秀先生のご挨拶に続き、事務局長の桑原聡先生により添付の資料通り、学会活動の報告、会計監査の結果報告がなされ、参加会員諸氏の承認を得ました。議題と関係し、今後の研究会やシンポジウムには学会員から積極的にアイディアを取り入れて行くこと、年に1回、学会員の交流を図る学会(研究発表大会)・懇親会などを組織して行くことなどが提案され会員の賛同を得ました。
19世紀学学会のさらなる発展のため、学会員のみなさまからの忌憚ないご意見・ご要望をお待ちしています。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。
また、学会費納入についてもよろしくお願いいたします。学会費に関する不明な点は、下記連絡先までお問い合わせ下さい。