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研究科長挨拶

Message from the Dean

 

 

新潟大学大学院現代社会文化研究科長

Dean of the Graduate School of Modern Society and Culture, Niigata University

 

番場 俊(ばんば さとし) BAMBA Satoshi, Ph.D.

 

 先日、とある高等教育関係のシンポジウムにオンラインで参加していたときのこと。教育上の重要なテーマに関する会議だからもちろん真面目に参加していたつもりだが、この種の催しは、半分は主催者への義理で参加することがつねであり、また、自室でのZoom参加ということもあって、あるいは少々居眠りしながらであったかもしれない。あるパネリストのひとことが耳を撃った。あわててパソコンに向きなおり、まだつづいている講演をよそに、ブラウザを開いて検索する。数日後に届いた書物のなかで、戦後日本を代表する思想家・鶴見俊輔は、15歳で渡米し、大学で学んでいた折に出会った一つの言葉から受けた衝撃について回想していた。「戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラー(1880-1968)に会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことを学んだが、そのあとたくさん、学びほぐさなければならなかった」といった。学び(ラーン)、のちに学びほぐす(アンラーン)。「アンラーン」ということばは初めて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された」(『新しい風土記へ――鶴見俊輔座談』朝日新書、2010年)。


 私たちは学んだ(learn)ものを学びほぐさ(unlearn)なければならない、――鶴見はそういっている。学んだことをいったん忘れること。型通りに修得した知識を解体し、セーターをほぐして編みなおすように、私たちひとりひとりの身の丈にあった知識として新たに築きなおすこと。身の丈にあった、というのは、頭の悪い私たちにも分かるように矮小化する、ということではない。そうではなくて、私たちひとりひとりが抱えている問題の複雑さ、その特異性にしたがって、よそから借りてきた知識を組み立てなおすこと、知識をその他者との出会いのなかで鍛えなおすということだろう。「学びほぐす」という日本語が英語“learn”の訳語としてはややこじつけめいているというのであれば、端的に「忘れる」でもかまわない。私たちは学んだことを忘れなければならないのだ。新たに学びなおすために。


 ここまで考えてくると、これはむしろ大学より大学院にふさわしい教えなのではないかという気がしてくる。「学びほぐす」ための場としての大学院――そんなキャッチフレーズが頭に浮かぶ。大学がなにかを「学ぶ」場としてあるとすれば、大学院は――とりわけ人文社会科学の諸領域にまたがる課題探求型の総合型大学院としてつくられた私たちの新潟大学大学院現代社会文化研究科は――、私たちがこれまで学んできたことをいったん忘れ、隣接する他領域との対話、先生たちとの、学友たちとの豊かな対話を繰り返しながら、知識を鍛えなおす「学びほぐし」の場としてあるのではないか。それはなにも従来の学科を無理にでも否定しなければならないということを意味しない。同じ書物のなかで鶴見の対談相手である中国の日本政治思想史研究者・孫歌(スン・グー)はいっている。「私は気軽に「越境」を考えていません。そして「越境」ということは学科と学科の間というより、学科の内部で行われると考えています。それはつまり、学科を崩すとか併合するとかというのではなくて、古く見られる学科を「開ける」ということです」。私たちの「現社研」が、そんな「学びほぐし」と「越境」の場になることを期待したい。