2026年3月に博士学位を取得した余子慶さんに、学位取得に至るまでの道のりを執筆していただきました。学部の交換留学生から博士課程まで、十数年に及ぶ新潟大学での日々が綴られています。
新潟大学とは、私にとって長いご縁のある大学である。振り返れば、これまでの人生は、新潟大学で学ぶ中で視野を広げ、その都度、進む方向を選び直すことで展開してきた。
本稿では、そうした歩みをたどりながら、新潟大学で学んだ意義と、そこで得たものについて振り返りたい。
Ⅰ 出発点としての言語:華中師範大学での学び
私は2008年の秋、中国の高考を経て、華中師範大学外国語学院日語系(日本語学科)に入学した。大学に入ったばかりの頃は、将来の進路について具体的な構想があったわけではなく、ただ目の前の日本語学習に没頭していた。
当時の私にとって、日本語はあくまで「合格しなければならない専門コースの科目」であり、それ以上に社会や研究と結びついた対象として意識していたわけではなかった。
華中師範大学日本語学科では、学科長を務められていた李俄憲先生が新潟大学の卒業生であり、同じく新潟大学卒の石橋一紀先生も教鞭を執られていた。そのため、学科に入学して間もない頃から、新潟大学という名前には自然と親しみを覚えるようになっていた。
先生方の丁寧なご指導のおかげで、2010年夏には、日本経済新聞社主催の第5回全中国選抜日本語スピーチコンテスト華中地区予選を通過し、東京で開催された決勝大会に出場する機会を得た。これが私にとって初めての海外渡航であり、日本の社会や人々と直接接した最初の経験でもあった。
そのときに東京で覚えた驚きや感動は、単なる試合や旅行の印象にとどまらず、「日本で学ぶ」という選択肢を現実のものとして意識させる契機となった。
同年秋、新潟大学との交換留学プログラムの存在を知り、私は迷うことなく応募した。そして2010年10月から1年間、新潟大学で学ぶことが決まった。こうして、日本語学習を出発点とする私の学びは、次の段階へと進むことになる。

東京を見上ぐ
Ⅱ 2010年、新潟との出会い:交換留学という転回点
私が新潟に到着したのは、2010年9月30日であった。その日は軽度の地震を経験し、また同日からタバコの価格が300円台から400円台へと引き上げられた日でもあった。テレビには値上げに憤る人々の姿が映し出されており、異国に降り立ったばかりの私には、そのすべてが新鮮で、どこか印象深く感じられた。
翌日、国際課の岩田さんがバスで迎えに来てくださり、大学へ向かった。車窓から見える街の看板を眺めながら、「これは何の店だろうか」と考え、気になった言葉をメモしていた。新潟での生活は、そうした小さな観察の積み重ねから始まった。
交換留学生はまず集中日本語コースを履修し、日本語能力に応じてクラス分けが行われていた。私は最も上位のAクラスに配属され、一定の安心感を覚えた一方で、周囲の学生の水準の高さに圧倒されてもいた。相対的に成績が突出して良いわけではなく、焦燥感を抱えながらも、自分なりに努力し、トップレベルのクラスメイトに追いつこうとしていた。
集中日本語コースでは、発音や用法に厳格な指導、日本文化や宗教的背景を交えた解説、学生一人ひとりに目を配る丁寧な対応など、教育スタイルの異なる複数の授業を受けた。いずれも印象深く、日本語教育の奥行きを実感する経験であった。
新潟大学では、日本語科目に限らず、学部・大学院の授業を自由に聴講することが可能であった。その中で、後に修士課程で指導教官となる先生と出会った。とりわけゼミ形式の授業は、中国で受けてきた授業とは大きく異なっていた。正解を与えられるのではなく、学生自身が調査し、発表し、議論することが重視されていたのである。
また、中国法に関する授業にも出席し、中国の制度や法が、日本ではこのような視点から教えられ、理解されているのかと強い新鮮さを覚えた。同じ授業を受けていた先輩とは、授業後も夜遅くまで、死刑制度の存廃をめぐって議論を交わした。自分の関心が、言語の習得を超え、社会や制度へと向かい始めていることを自覚したのは、この頃である。
いわゆる「硬い」学問的な授業だけでなく、茶道や生花など、日本文化に親しむことのできる「柔らかい」授業も用意されていた。こうした授業を通じて、日本社会の価値観や感性に触れる機会を得たことは、言語学習とは異なる次元での理解を深める助けとなった。
また、大学の国際課、サークル「国際ボランティア」の皆さんは、長野・佐渡への修学旅行、母語教室や音楽祭など多くのイベントを企画し、日本人学生と留学生との間に活発な交流の場をつくってくださった。学内での日常的な関わりを通じて、私は留学生として受け入れられているという実感を持つようになった。
新潟大学で過ごしたこの一年間は、学問的にも生活的にも非常に充実した、密度の高い時間であった。日本語能力の向上という点でも大きな意味を持っていたが、それ以上に重要だったのは、学問に加わっているという感覚を初めて得たことであった。この経験を通じて、私は大学院へ進学し、研究として学びを深めたいという思いを固めるようになった。

生花の授業

長野修学旅行 餅つきの様子
Ⅲ 制度に拒まれ、人に受け入れられる:私費進学の意味
私は2011年8月に交換留学を終え、華中師範大学へ帰校した。交換留学中から後に指導教官となる先生と進路について相談を重ね、大学院への進学を志望するようになっていた。当初は中国政府の国費留学生制度への申請に挑戦し、新潟大学からも多くのご協力をいただいたが、結果として採択には至らなかった。
それでも、日本で学び続けたいという思いは揺らがず、改めて先生に相談したところ、研究生として受け入れていただき、その後、大学院入試に挑戦するという私費留学の道を選択することになった。
今振り返れば、当時の研究テーマの選択や研究計画書の完成度には、反省すべき点が多くあったように思う。その意味で、制度的な評価は妥当であったとも言える。しかし、その後の勉学や研究生活を通じて実感したのは、制度による評価が、必ずしも個人の可能性そのものを測るものではないということであった。制度には拒まれた一方で、私は新潟大学において、一人の学生として人に受け入れられたのである。
私費留学生として始まった修士課程前半は、生活費を賄うためにアルバイトに多くの時間を割かざるを得ず、決して楽なものではなかった。それでも、私費外国人留学生を対象とした学習奨励費の選考に採用していただき、研究と学業に集中できる環境を徐々に整えることができた。その結果、修士課程を無事修了することができた。
制度に支えられなかった私が、研究を続けることができたのは、教員の判断と大学という場の柔軟性によるものであった。この経験は、私にとって、新潟大学が単なる制度の集合体ではなく、学ぶ意志を持つ者を受け止める場所であることを強く印象づけた。そしてこの受け入れられた経験こそが、次に修士課程で本格的に学問と向き合うための出発点となった。

博士前期課程入学式
Ⅳ 博士前期課程で学んだこと──答えよりも問い
私は2012年夏に華中師範大学を卒業し、2013年4月、研究生として再び新潟大学に戻った。半年間の研究生期間を経て、同年10月に大学院博士前期課程へ進学し、法政社会専攻に所属した。
修士課程では、「求富」と「富国」をキーワードに、19世紀後半における日本と中国の近代化改革を比較する研究に取り組んだ。近代国家がいかにして「富」を構想し、それを政策として実装しようとしたのかを、日中両国の歴史的文脈に即して比較検討する試みであった。
もっとも、博士前期課程で私が直面した最大の課題は、個別の結論を導くことよりも、どのような問いを立てるべきかを見定めることにあった。学部段階までの学習では、与えられた問題に答えることが中心であったが、大学院に入ってからは、そもそも何を問題として設定するのかが、常に問われていた。
新潟大学大学院現代社会文化研究科の学際的な指導体制は、この点で大きな意味を持っていた。主指導教官1名に加え、副指導教官2名から異なる専門分野の視点を受けることで、同じ歴史的事象であっても、問いの立て方によって見え方が大きく変わることを実感した。私は次第に、知識を増やすこと以上に、思考の枠組みそのものを意識するようになっていった。
修士課程の段階では、現在の自分から振り返れば、理論的にも方法論的にも十分に整理しきれなかった点が多い。しかし、この「未整理」こそが、私にとっては重要な意味を持っていた。すぐに完成形を求められるのではなく、問いが未成熟なままでも議論の対象として扱われる環境があったからこそ、自分の関心の輪郭を少しずつ明確にすることができたのである。
修士課程を通じて得た最大の成果は、完成度の高い答えではなく、未熟さを自覚しながらも問いを立て続ける態度であった。この時期に培われた思考のあり方は、その後、大学を離れて社会に出た際にも、別の形で自分を支える基盤となっていく。
また、新潟大学は国際的にも開かれた学習環境であり、多様な背景を持つ学生が日常的に学びを共にしていた。中国人留学生に加え、ヨーロッパや中央アジア、中東地域など、異なる社会的・文化的文脈を持つ学生が同じ教室に集い、同じテーマについて議論する機会があった。
そうした場では、同一の歴史的事象や制度をめぐっても、問題の所在や重視される論点が必ずしも一致しない。ある学生にとって自明に思える前提が、別の学生にとっては問い直される対象となることも少なくなかった。その都度、自分自身が当然視していた見方や理解の枠組みを、相対化せざるを得なかった。
こうした環境の中で私が強く意識するようになったのは、物事を一つの正解に収めることの困難さであり、むしろ異なる視点を併存させたまま、問いを持ち続ける姿勢の重要性であった。多様な背景を持つ学生が集う環境は、単に国際色が豊かであるというだけでなく、思考の前提そのものを鍛え直す場として機能していたように思う

留学生同士 冬の日常(雪遊び)
Ⅴ 一度、大学を離れる:社会に出た5年間
修士課程を修了した後、私は一度大学を離れ、社会に出ることを選択した。日本での生活は、学業だけでなく、日々日本社会を観察する過程でもあったが、実際に日本の職場で働く経験を通じて、その観察はより具体的なものとなっていった。研究を続ける道も考えたが、実務の現場を経験したいという思いと、経済的な事情とを踏まえ、就職を決意した。
就職活動の時期には、新潟と東京の間を夜行バスで何度も往復した。最初に勤務したのは、農業機械部品を調達する専門商社であり、その後転職し、環境リサイクル機器を製造するメーカーに勤めた。働く中で、スマートフォンの普及に象徴されるように、社会のコミュニケーションのあり方が急速に変化していく様子を、生活実感として捉えることができた。
転職に伴い、勤務地も松山、大阪、東京と変わった。仕事に加え、地域ごとの風習や文化に触れる機会を得たことで、日本社会をより広い視野から観察することができた。松山での生活を通じて俳句に関心を持つようになり、後に俳句の翻訳活動に携わることになったのも、この時期の経験に由来している。
会社勤務の中で、特に印象深かったのは、人と制度、そして技術の関係をめぐる観察であった。二社目では、プラスチック廃棄物を選別する光学選別機を中国市場で販売する企画業務に携わった。光学選別機は高度な技術を応用した機器であり、当時、中国では廃棄物リサイクル政策が進められていたこともあり、大きな関心を集めていた。
しかし、販売活動を進める中で、私はある違和感を覚えるようになった。日本の容器包装リサイクル制度に見られるように、法、制度、自治体、企業、市民の協働関係の中でこそ、こうした機器は本来の性能を発揮する。ところが、中国市場では、制度的な前提や運用の文脈への関心は相対的に薄く、技術そのものへの期待が先行する傾向が強かった。結果として、機器は導入されても、日本と同様の形で運用されることは難しかった。
こうした状況に直面したとき、私の頭に自然と思い浮かんだのが、清末における改革の歴史であった。19世紀末、洋務派の張之洞は、イギリスから機械を導入し、ドイツ人技師を雇って製鉄事業を興した。また、同じく洋務派の左宗棠も、ドイツから機械を購入し、毛織物工場の設立を試みていた。しかし、制度的条件や技術的運用体制、さらには周辺インフラが十分に整わないまま導入された設備は、結果として本来想定された性能を発揮することが難しく、多くの場合、期待された成果を持続的に生み出すには至らなかった。
光学選別機の販売業務を通じて私が感じた違和感は、この歴史的経験と重なって見えた。高度な技術そのものが問題なのではなく、それを支える制度、運用の仕組み、人々の行動様式との関係が問われている点において、両者は共通していたからである。技術は、それ単独で社会を変えるものではなく、必ず特定の制度的・社会的文脈の中で初めて意味を持つ。
修士課程で取り組んだ、近代日本と中国における改革の比較研究は、当時は主として歴史的事例を扱うものであった。しかし、社会に出て実務の現場に立ったことで、それらの議論が単なる過去の出来事ではなく、現在にも繰り返し現れる構造であることを、具体的な経験として理解するようになった。
やがて、日中間のビジネス環境は新型コロナウイルスの影響によって大きく変化した。こうした状況の中で、私は再び、自身の関心を理論的・歴史的に掘り下げて考え直したいという思いを強くするようになった。実務を通じて得た違和感や問いを、改めて研究として整理する必要を感じたのである。

松山 漱石句碑
展示会 リサイクル機器の紹介
Ⅵ 再び大学に戻る:2021年、博士後期課程へ
社会に出てから5年が経った頃、私はかつての指導教官と進路について改めて相談し、博士後期課程に進学する決断をした。再び新潟大学大学院に出願し、2021年10月、同大学に復帰することとなった。社会に出た5年間は、研究から離れた時間であると同時に、研究の問いを現実の中で鍛え直す時間でもあった。そして、新潟大学とのこれまでの継続した関係があったからこそ、続きから考えることのできる場所として、再びここを選ぶことができた。
社会勤務を経て、問いをより明確に持つようになると、私は研究対象や思考の枠組みを、以前よりも主体的に選択できるようになった。歴史的事実そのものを積み上げること以上に、人はなぜ動くのか、あるいはなぜ動かないのか、人と制度はいかに関係づけられているのかといった、より基礎的な問題意識が前面に出てくるようになった。
こうした関心の変化から、私は従来の近代化研究が主に扱ってきた「外からの技術や制度の導入」という視点から一歩離れ、むしろ、どのようにしてモノが外へと出ていくのか、その過程を観察する方向へと研究の軸足を移すことにした。その際に辿り着いたのが、陶磁器業である。磁器は、ヨーロッパを魅了したアジア発の技術であり、近代以前から大規模な輸出実績を有していた。また、近代におけるその拡大の契機は、単純な科学技術の導入によるものではなかった。この点が、研究対象として陶磁器業を選択した最も重要な理由であった。
博士後期課程においても、主指導教官に加え、副指導教官2名による複合的な指導体制のもとで研究を進めることになった。陶磁器業を事例として本格的に扱うことができたのは、経済史的視点を含む多様な知見に触れることができたからであり、この指導体制がなければ難しかった選択であったと思う。
私の博士後期課程における研究は、指導体制の継続と引き継ぎの中で進められた。博士課程への進学当初から、研究を引き受け、学業を完遂するまでの道筋を支えてくださった前指導教官の存在は、私にとって極めて大きなものであった。日々の指導を通じて、研究を継続するための基礎的な姿勢と、問いに向き合い続けるための粘り強さを学ぶことができた。
2025年3月に前指導教官が退官された後は、現指導教官のもとで研究を継続することとなった。研究内容そのものだけでなく、学会への参加や研究交流の機会を通じて、学問の世界がいかに広く、多様な人々によって支えられているのかを実感することができたのは、この時期の大きな収穫であった。研究を外に開き、他者の視点に触れることで、自身の関心や問題意識を相対化し、視野を広げる貴重な刺激を受けたと感じている。
博士後期課程での日々は、決して楽なものではなかった。史料を読み込み、先行研究と向き合い、そして何よりも、自分自身の問いと向き合い続ける時間であった。ただ、今振り返ってみれば、4年半という期間は長いようでいて、思いのほか短く感じられる。
修士課程の頃の新鮮さとは異なり、博士課程では一人で過ごす静かな時間が多かった。その分、これまで意識することのなかったキャンパスの風景が、次第に目に入るようになった。日常の中にある小さな変化や静けさに、改めて気づかされることも多く、研究生活の合間に、過去を思い出し、ささやかな感動を覚えながら過ごしていたように思う。

晴れ渡る新大五十嵐キャンパス

新大五十嵐キャンパス 静謐な雪の夕方(撮影:中国人留学生WANG ZHENG)
Ⅶ 新潟での生活:学問を支えた日常
新潟で私を支えてくれたのは、大学という学術的な環境だけではなかった。日々の生活の中では、地域社会の多くの方々が、留学生である私に親しく接してくださった。その中でも、特に大きな存在であったのが、大学西門近くにあるマルグッタ51番地である。
このカフェは、老夫婦が切り盛りする小さな店で、店内には床屋も併設されている。マスターが主にカフェを担当し、お母さんが床屋とカフェの仕事を掛け持ちしていた。考えが煮詰まったときに一息つく場所であり、また、留学生たちが自然と集まり、日本での日常を分かち合う場でもあった。
私がこの店を知ったのは2013年のことで、韓国人の先輩に案内されて初めて足を運んだ。それ以来、修士課程から博士課程に至るまで、長くお世話になってきた場所である。
お母さんの手料理はとても美味しく、定番のカレーやパスタに加え、毎週のように栄養バランスを考えた家庭料理を振る舞ってくださっていた。温かい手料理を囲みながら、店内では日本語を共通語としつつ、時には五つほどの言語が飛び交うこともあり、多国籍な留学生たちの声が自然に響き合っていた。
マスターはユーモアに富んだ方で、美味しいコーヒーを淹れながら、時に笑いを誘う話をし、時に私たちを静かに励ましてくださった。「電車の中で走っても、東京に早く着くことはないよ」と、平常心で物事に向き合う大切さを教えてくださったことや、就職活動で気持ちが沈んでいた際に、「誰も凹む人を好きになれない。落ち込んだ表情の人は、周囲も明るくできない」と、前を向く姿勢の重要性を諭してくださったことは、今でも心に残っている。
マルグッタ51番地は、学問とは直接関係のない場所でありながら、私にとっては研究生活を静かに支える、かけがえのない日常の一部であった。こうした地域の居場所があったからこそ、長い研究生活を続けることができたのだと思う。

カフェ・マルグッタ51番地 マスターとお母さん

マルグッタの家庭料理とコーヒー

新潟を離れた後、再びマルグッタを訪ねる留学生
Ⅷ 地域に支えられた学び:ロータリーとの縁
新潟で私を支えてくれた、もう一つの大切なご縁がロータリークラブであった。私は2022年に応募し、2023年4月から2024年9月まで、奨学生として奨学金のご支援を受けることとなった。
博士後期課程も私費での進学であり、研究生活は貯蓄を切り崩しながら続けていた。そうした状況の中で、ロータリークラブからいただいた奨学金は、経済的な意味においても非常に大きな支えであった。しかし、それ以上に強く印象に残っているのは、カウンセラーや世話クラブ、そして日常的に接してくださったロータリアンの皆さまとの交流を通じて感じた、人と社会のあり方である。
そこでは、個人が独立した存在として尊重されつつ、同時に、個人同士が自発的な意思によって結びつき、公益のために行動していた。特定の見返りを求めるのではなく、奉仕の精神に基づいて自らを組織し、社会に関わっていく。その姿勢に触れる中で、私は、社会の寛容とは何か、また、個人の主体性がいかにして公共性へとつながり得るのかを、具体的な経験として学ぶことになった。
新潟ロータリークラブの奨学金支援は、単に研究を継続するための資金的援助にとどまらず、大学と地域社会とが、学びを介して結びついていることを実感させるものであった。大学での研究が、決して学内だけで完結するものではなく、地域社会の理解と支えの上に成り立っていることを、身をもって知る機会でもあった。
研究に専念できる環境を与えていただいたことへの感謝とともに、学問が社会に支えられ、また将来において社会へと還元されていく営みであることを、改めて強く意識するようになった。この経験は、博士課程での研究を進める上での精神的な支柱となり、今後の研究者としての姿勢を考える上でも、大きな意味を持っている。

ロータリー米山記念奨学生 集合写真
Ⅸ 新潟大学という「思考の場所」
新潟大学を離れ、社会に出てから改めて振り返ってみて初めて、この大学の特徴がはっきりと見えるようになった。学部や大学院で過ごしていた当時には当たり前のように感じていた環境が、決して普遍的なものではなかったことに、時間を置いて気づかされたのである。
新潟大学で最も印象的だったのは、結論を急がせない文化であった。研究において、早く数字通りの成果を出すことや、整った答えを提示することよりも、問いをどのように立て、どの水準で考え続けるのかが重視されていた。すぐに役立つかどうか分からない問いであっても、否定されることなく受け止められ、議論の中で少しずつ鍛えられていく。そのような時間の流れが、この大学には確かに存在していた。
また、外国人留学生に対する距離感も、新潟大学の大きな特徴であったように思う。過度に特別扱いされることもなく、かといって放置されるわけでもない。一人の学生として扱われ、必要なときには手を差し伸べられる。その適度な距離感の中で、私は自ら考え、選び、学び続けることを求められていた。それは決して楽なことではなかったが、主体的に学問と向き合う姿勢を育てる上で、極めて重要な条件であった。
学位取得という結果だけを見れば、大学院での時間は一つの通過点にすぎない。しかし、新潟大学で学んだことで私に残ったのは、特定の答えや知識以上に、問いを問いとして扱い続ける態度であった。何が分かっていないのかを見極め、すぐに結論を出さず、複数の視点を行き来しながら考え続ける。その思考の型こそが、最も大きな収穫であったと言える。
こうした学びは、大学の中だけで完結するものではなかった。社会に出て実務に携わる中でも、そして再び研究の場に戻った後も、新潟大学で培われた思考のあり方は、常に自分の中で働き続けていた。だからこそ私にとって新潟大学は、単なる学位取得の場ではなく、何度でも立ち戻り、思考を再起動させることのできる場所なのである。

新潟大学 松柏常青でありますように(撮影:中国人留学生WANG ZHENG)
Ⅹ 感謝とこれから:離れても続く関係
本稿の結びにあたり、これまでの学びを支えてくださった方々への感謝を述べたい。
まず、博士課程への進学を引き受け、学業を完遂するまでの道筋を支えてくださった前指導教官に、心より感謝申し上げる。日々の指導を通じて、研究を継続するための基本姿勢と、問いに粘り強く向き合う態度を学ぶことができたことは、私の研究生活の確かな土台となっている。また、その後研究を引き継ぎ、学会への参加や研究交流の機会を通じて視野を広げる刺激を与えてくださった現指導教官にも、深く御礼を申し上げたい。異なる段階で、それぞれの役割を担ってくださった指導のもとで研究を続けることができたことは、何よりも恵まれた経験であった。
また、副指導教官として研究に関わってくださった先生方にも、心より感謝申し上げたい。専門分野の異なる立場から投げかけられた問いや示唆は、研究内容そのもの以上に、物事をどの水準で捉え、どのように考えるべきかを見直す契機となった。視点の違いとして与えられた助言の一つひとつが、思考の幅を広げる上で大きな意味を持っていた。
あわせて、新潟大学大学院現代社会文化研究科の教職員の皆さま、研究環境を支えてくださった大学関係者の方々、そして学外において学びを支えてくださった地域社会の皆さまにも、心より感謝申し上げる。大学の内外に広がるこうした支えがあったからこそ、長い研究生活を続けることができた。
これから私がどこで研究や仕事に携わることになっても、新潟大学で培った思考のあり方を手放すことはないだろう。結論を急がず、問いを問いとして扱い続けること。異なる視点を往復しながら、安易に一つの答えに収斂させないこと。そうした姿勢は、学位以上に私の中に残った、最も大切な財産である。
最後に、これから新潟大学で学ぶ在学生の皆さんへ。進路や研究に迷うことがあっても、問いを持ち続ける時間そのものが、必ず後になって意味を持つことを、私は自身の経験から実感している。新潟大学という場所で得た学びが、それぞれの歩みの中で、静かに、しかし確かに働き続けることを願っている。
余子慶
